地名「御経塚」の由来

「野々市町史 集落編」に次のような説明がある。

塚腰山(つかごしやま)の経塚
御経塚2丁目にある経塚公園(泉の広場)は、3795㎡の規模を持つ街区公園で、平成11年(1999)3月30日に整備された。この公園の南側に、「御経塚」という地区名の由来ともなった町指定史跡「経塚」(平成12年5月26日指定)がある。一般に経塚とは、釈迦の教えを永く後世に伝えるために、地中に教典を埋納した塚のことをいい、平安時代後半に流布した末法思想に由来するものである。それらには、教典を壺などに納めて埋めた例や小石に経文を一字ずつ記して埋める例などがあるが、この地区でもかつて文字を記した小石が多数見つかっていたという話もあり、例えば、『亀廼尾廼記(かめのおのき)』という江戸時代の地誌の「御経塚」の項では、「此(この)塚より経石まゝいずる也、いにしへ天台の巨刹(きょさつ)真願寺といふ跡あり、又、大門・金堂などゝゝ字(あざ)の畑もあり」と記している。『加賀史徴』には「古跡考に、いにしへ一石一字の経石を築きたりといひ伝ふ。此塚によりて村の名も付けたるべければ、其(その)故事もありつべし。今は聞伝ふる人もなし」とみえる。この経塚は、「塚腰山」(塚越山とも書く)と呼び習わされ、石造の傅大士像(ふだいしぞう)が祀られた小祠(しょうし=ほこら)が残る。毎年2月15日には地区の人々により「塚腰まつり」が執行され、小祠が開扉される。この傅大士像は像背面に陰刻された銘文によると、天保10年(1839)に伊三衛門・多三右衛門・弥三兵衛・清右衛門らによって奉納されたもので、制作者は琢磨という石工であったが、経塚を守護するものという。

 御経塚には、塚腰山をめぐりいくつかの伝承が残されている。例えば冠婚葬祭にあたり、「明日法事があるさかい、御膳を何人前」というと膳が整えられていたが、ある日のこと御膳を借りた人が誤ってそのうちの一つを壊してしまい、新しいものを買い足して返したが、それ以来御膳は出てこなくなったというもので、各地に残る「椀貸し伝説」の一バリエーションとみることができる。

 また、先に紹介した天台寺院にまつわる伝承としては、一向一揆の時代に焼失した寺院の宝物を教典とともに埋めて塚として、そこに杉の木を植えたというものがあり、「てらのまい(寺の前)」「どうしょ(堂所)」「はかのまい(墓の前)」「ぼんさんまい(坊主の墓)」などの地名を紹介するものもある。
 このほか、「塚腰まつり」に関しては、区長の奉納する酒一升を村の若い衆が奪い合いをしたということや塚腰山が女人禁制であったことなども言い伝えとして残されていたことが「御経塚町の民話を聞く会」によって『押野公民館だより』(昭和63年(1988)1月1日)に紹介されている。

 上記のほかに、「室町時代に、野武士集団が、ここにあった大寺院を襲ったので、僧侶が経本や宝物を埋めて逃げた」とか、「木曽義仲が北国に進軍したときに寺院の宝物を集めて埋めた」などもある。

 塚の上に植えられた杉については、別の書に

集落の北に「御経塚」の地名の起源となる「経塚」がある。盛り土の高さ1間(1.8m)余り、周囲28間(50.4m)、塚の上に杉と榎の大樹があり、里人は御経を捧げていた。

とある。数百年の歳月を経た杉は、遠くの村々からも望める巨木となり、いつしか「一本杉」と呼ばれて御経塚のシンボルとなった。下枝は小学生でも届くほど低かったので、男の子は大人に隠れてよじ登り、枝にまたがって揺さぶり大いに楽しんでいた。惜しいことに昭和40年頃雷が落ち、しだいに枯れてきたので伐採し、その一部を杉板として佐那武神社に奉納している。

 2月15日の塚腰まつりは、かつては農休日として「かいもち」を作り、踊りを踊って楽しんだ。今は町内会役員と塚腰管理委員が酒と供物を捧げてお参りしている。

御経塚「泉の広場」内にある、経塚の祠

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