「御経塚」の生い立ち

『御経塚』の生い立ち

石川県金沢市の西に広がる広大な平野は、霊峰白山から流れ下る手取川が作った扇状地である。縄文中期(5000年前~)になるとこの手取扇状地に初めて人が住み着いた。しかし、後期(4000年前~)になると集落は絶え、手取扇状地は再び無人の原野となった。

縄文後期の中葉(3500年前頃)に、扇状地復活第1号として「御経塚遺跡」集落が出現する。この集落は後に30,000㎡を越える大集落となり、晩期終末(2300年前頃)までの長期間にわたって黄金時代を築いた。全国でもこれに匹敵する規模の集落跡はない。

この集落は現在の国道八号線御経塚交差点西側(史跡公園やサティ南側駐車場を含む一帯)にあった。住居が馬蹄形に取り囲み、その中央に広場があった。全国的に注目された「御物石器(ぎょぶつせっき)」(祭器)や竪穴式住居6棟、方形建物13棟、亀甲形建物30棟、円形建物(環状木柱列)20棟が発見されている。
(御物石器とは、かつて穴水町で発見された1対を明治10年北陸巡幸の明治天皇に献上し御物となったために付けられた名称で、地中から石囲いの中に納置された状態で発見されたのは全国で御経塚が最初である)

3世紀の中頃、奈良盆地に巨大な前方後円墳が作られた。3世紀の終わり頃には御経塚にも古墳が現れる。現在の御経塚2丁目の墓地と泉の広場を東端とした上荒屋との境界線までの一帯(御経塚シンデン遺跡)では、首長の前方後円墳4基と家族墓の方墳11基が発見されている。現在の墓地の北半分と塚腰山全部を含む前方後円墳が最も大きい。いずれも周溝のみが発見され、上部の埋葬施設は既に削られていた。(古墳の下には更に古い弥生や古墳時代の住居跡が多数あった)

御経塚にはそのほかに発掘された遺跡が幾つもある。
 

  • 「御経塚遺跡デト地区」(史跡公園南側)
    =縄文、弥生~古墳、中世の複合遺跡。
    100m四方を溝と土堤で囲った弥生時代の集落跡がある。石組の井戸があり、周辺の集落を束ねた有力者の居宅と思われる。
  • 「御経塚遺跡ツカダ地区」(御経塚交差点東側、疋田線の南北)
    =弥生~古墳時代の住居
  • 「御経塚オッソ遺跡」(1丁目西部、上荒屋1丁目との境界)
    =弥生時代の住居

御経塚史跡公園(小松方面から臨む) 右の写真右手が国道8号御経塚史跡公園 御経塚史跡公園

集落「御経塚」の登場

江戸時代、正保年間(1644年~)に記録された「正保郷帳(しょうほうごうちょう)」に「御経塚村」石高981石、田59町2反、畑6町2反と記されている。「御経塚」の地名が登場する最も古い記録である。
寛文10年(1670年)に発給された「御経塚村村御印」では「尾経塚村」となっている。
寛延3年(1750年)押野村安兵衛が加賀藩に上申した「米丸組高免手帳」によれば、

『御経塚村は、金沢野町の一里塚まで道程1里10丁程(約5㎞)、在所は東向きに位置し、村から見て金沢は寅卯(とらう=東北東)の方角である。惣家数46軒で、本百姓34軒、頭振(あたまふり=小作)12軒』

となっている。また、在所の北にある塚や村名については、

『此の塚の義、昔石に経書付、塚につき込め申す由、伝え申し候、先年は尾経塚村と書き申し候得共、只今は御経塚村と字改め候得共、年号相知れ申さず候』

と書き、別に付箋を付けて、それには

『明暦3年(1657年)より尾経塚と申すべき旨にて書き申し候、延宝弐年(1674年)より先年の通り御経塚村と書き申し候』

と特記している。村には宮林(神社)が2カ所あり、1カ所は八幡社(大城八幡神社)、もう1カ所は春日社(佐那武神社)を祀っていることも書いている。

佐那武神社の鳥居 佐那武神社拝殿

佐那武神社 佐那武神社の標柱

御経塚マップへ



Back to Top ↑